校歌
|
「東海に光は満ちて」で始まる本校校歌は「昭和26年に新制高校の第一回卒業生をこの校歌によって送り出す事ができた」と記録があるように、本校創立後間もなく作られました。「平和日本」、「科学日本」、「文化日本」をみんなで築こうと、本校の目指す道が高らかに歌われています。とりわけ「海軍工廠の町=技術の町・ハイテク産業の町」として全国に知れ渡っていた豊川市が、爆撃とともにすべてを失い、呆然自失となっていた時に発足した豊川工業高校に期待するものは「平和・技術」両面において格別大きかったであろうと想像されます。 ところで、本校校歌の作詞、作曲者は驚くべき二人の大家です。新制中学、高校の発足と共に、全国で一斉に校歌が作られ、多くの有名作曲家、作詞家がこの作業に参加したと聞いていますが、本校の校歌ほど豪華な顔ぶれは希ではないかと推察いたします。 まず作曲者の信時 潔氏は大正から昭和30年頃まで活躍した大作曲家で、本校の校歌を作曲した頃は日本芸術院の会員でありました。(日本芸術院の会員は芸術活動のそれぞれの分野の最重鎮が文部大臣により推薦される。) この作曲家の代表作は年配の人なら誰でも知っている大伴家持の詩による「海ゆかば」で、この曲は第二次世界大戦中戦死者を弔う歌として多く歌われた歌です。 作詞の佐々木信綱氏は明治、大正、昭和にわたり活躍した歌人であり国文学者です。万葉集の研究家として高名であり、「ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲」という歌は大和路を代表する近代の短歌として多くの旅人に歌い継がれています。昭和12年に制定された文化勲章の初代受章者であり、戦中から戦後にかけては芸術、学士院の両会員を兼ね国文学学会の最長老でした。 このような、当時日本でも最も高い地位にあった二人に校歌を依頼した経緯は、昭和48年に発行された創立30年史に第2代校長より寄稿されています。これによりますと「学校の象徴として立派なものを作りたいとの思いより、国文学者である愛知大学の久曽神教授(後の学長)により佐々木信綱氏が紹介され、佐々木氏が作曲は信時氏に依頼した」とあります。当時の担当者の校歌に対する熱い思いが伺われます。 なお、この時佐々木信綱氏より校歌とともに次の二つの歌が生徒諸君に贈られました。 吾が道 吾が前にあり 磬山の 此の険しきも ふみさく行かん つとめよや 此の豊川の学び舎に よく学び得て よき人とこそ 50年前に技術の町の期待を背負って出発した本校、そして校歌に込められた思い等、開校50周年を期に改めて見つめなおすこともいみがあるのではないでしょうか。 |